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なぜ道場を立ち上げたのか…高校時代…

運良く享栄高校に入学した僕は、野球のレベルの高さに驚いた。上には上がいるとはよく言うが、まさにその光景がグランドにはあった。

どの先輩も上手で、体も自分の何倍も大きくて、特待生だからと言って勝てる要素は一つもなかった。練習メニューも本当に苦しく厳しいもので、
先輩後輩の上下関係も中学時代とは比較できないほどだった。
どこの学校も当時はそうだったが、今の時代では考えられないほど理不尽な事も多く厳しい世界だった。

毎朝5時頃の電車に乗り、朝練→授業→練習、土日はほぼ試合、帰宅後はフラフラになりながらバットを振り、父に叱られながら疲れ果てて寝る。

体も心もいっぱいいっぱいになった時は、やはりサッカーへの未練や苦しい現状を思いお風呂で号泣していた。

高校1年生はそんな日々で終わってしまい、野球をやれた実感はほとんどない。
強豪校の凄さ、厳しさ、大変さを痛感した1年だった。

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少しペースを掴めた高校野球だったが、高校2年生から高校野球を終えるまで悩まされた2つの問題。
それは父がプロ野球選手だったからこその周りからの目線、もう一つはケガとの戦いだった。

父親と同じ道を進んだ者は、少なからず感じた事はあると思うが、父と比較される事が僕はすごく苦しかった。
父もプロ野球で16年やった人だけに、なかなか簡単に抜けるわけがない。
高校2年生で少しずつ試合に出させてもらえるようになり、少しずつ結果も出だしたが「お父さんと比べると不器用だな」
「お父さんのセンスはお母ちゃんのお腹に置いてきたな」そんな事を父の古くからの友人知人からは言われて落ち込んでいた。
「そんな事言われなくても分かってる…」「元々やりたくてやったわけじゃない野球をやってるのに、何でそこまで言われなくちゃいけないのか…」
そんな気持ちでいつも腐っている自分がいた。

ケガも、捻挫や打撲は日常茶飯事だが、足首外側の靭帯断裂や肉離れ、左肩の脱臼などプレーに支障が出るものばかりだった。
ただ「痛いので休ませてください」「治療したいです」そんな言葉は言いたくても言えなかった。休めば試合には二度と出れない、
休む事はサボる事、そんな空気感が当時の高校野球にはあった。
ケガをした時も、治す事より、明日からどうやってプレーしようかを先に考えていた。テーピングでぐるぐる巻きにして固定をし、痛み止めを飲みながらプレーしていた。
今思うと、テーピング代、薬代…ケガばかりしていた僕にどれだけお金がかかったか分からない。それだけでも親には申し訳ない気持ちになる。

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高校3年生で主将になり、チームをまとめていかなくてはいけない立場になった。
ただ、僕は歴代主将の先輩達のように、プレーに説得力があり、カリスマ性を感じる雰囲気や発言ができる人間ではなかった。

1番に考えた事は理不尽な世界をなくし、厳しい上下関係を考え直し、平和を求める考え方が自分にはあった。

しかし、良くも悪くも伝統というのは継承されてしまい、流れを食い止める事は難しかった。後輩達に優しくする事を良いと思わない同級生もいた。
部員も多く、目を行き届かす事も難しかった。
父に負けないぐらいのプレーをしなくてはいけない、ケガとの戦い、そこに主将としての役割が加わり、最上級生になっても苦しい日々は変わらなかった。

結局、僕が主将を務めた年は甲子園を勝ち取る事はできなかった。チームをまとめきる事も難しく、無我夢中だった事は間違いないが、力のなさだけがただただ残った高校生活だった。

高校生ではあるが、人との関係性の難しさ、チーム作りの難しさを痛感する経験だったと思う。

続く

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